第2章で述べてきたように、日本の紙には、絵具をしっかりと捉え、何回もの摺りに耐えることのできる物理的な強さがあります。また、日本の伝統的な製法で作られた紙は酸性度が低いため劣化しにくく、化学的な強さも持ちあわせています。これらの強さを利用して、古い文書や、主に紙を支持体とした美術作品の修復に使われています。
ここでは、当館の収蔵品の修復を行った修復家へのインタビューを通じて、修復に使う紙や修復の実例を紹介していきます。
【インタビューについて】
お話をうかがった方:北見音丸氏(一般財団法人 世界紙文化遺産支援財団紙守 参事)
一般財団法人 世界紙文化遺産支援財団紙守 https://www.kamimorifoundation.com/
取材日:令和6(2024)年9月18日
修復に使う紙の種類は意外に少なくて、現時点で使っているのは楮から作った紙です。日本で造る紙というと、楮、三椏、雁皮。中国を入れると、藁、竹というものあるけれど、紙の修復には長い繊維が必要なので楮を使います。短い繊維の紙は修復の現場では使いにくい。長い繊維は、欠落したところのブリッジになってくれるから。楮の繊維は面白くて、こうして紙を破いてみると見えてくる。
それはまだ繊維の束です。顕微鏡で覗いて繊維素というところまで(セルロースと呼べるところまで)見ると、ほとんど1ミリより短い。繊維素まで細かくしてしまうと逆に使いにくいので、繊維というところで、楮の皮を叩解するのを止めます。そしてこういう(薄い)紙に漉き上げる。繊維は長いままですよね。これは1平方メートルあたり2グラムくらいです。
紙の損傷には2種類あります。ひとつは物理的に破れる。この場合はちょっと厚めの楮紙を使って直します。角が破れたりしたものは、この2グラムの紙では頼りないですから。
もうひとつは酸化です。明治に入ってきた西洋紙だと100年くらいでボロボロになります。すべてのものは大気中の酸素と化合して酸化しますから。例えばこの本、ここを薄い紙で補強をしているのが分かりますか?ページの周囲も補強したりしますね。例えば周囲が燃えちゃっても印刷が見えていれば残したい。でも触ると粉になる。それを防ぐのに、こういった紙を小麦のでんぷんで貼り付けるんです。
水で濡らすと取り外せるからです。永遠なんてものはない。できれば時々メンテナンスをしながら作り替えていく。その思想で分かりやすいのが、日本の伊勢神宮。20年ごとに作り替えていきますよね。同じものを残そうとするのに正しい方法です。技術も連綿と残ります。堅牢に作って、もう壊れないというものだと、次の世代の子どもたちはそれができなくなる。本当に良いものを作ったら、作り替えて孫子の代まで繋いでくのが良いと思います。
片面にしか情報がない場合は、多少は厚い紙でも大丈夫です。裏面は読まなくていいから。でも両面に書かれている場合は、読めなくなるからすごく困ります。だから薄い紙を使います。
その紙を造る時に重要なのが、繊維と繊維がブリッジ状に絡んでいること。だから平安時代によく使われた雁皮とか、中国由来の藁を原料にした紙は繊維が短いので向きません。西洋の綿を原料にしたコットンペーパーも難しいですね。だから日本の楮でできた紙が最も適しています。
修復と言ってもいろんな場合があるので、同じ楮の紙でも、厚いのか薄いのか、状態に合わせて紙を変えます。私たちは紙も造っていますが、1平方メートルあたり何グラムかで紙を分けています。ヨーロッパなどに出すときには追跡調査ができるように、原料の産地などもあわせて提出します。そうすると安心されるので。
はい、私たちは紙の生産者でもあります。紙を造って修復をしているところは、ほとんどないと思います。私たちは、紙が紙のかたちを失う時はどういう時か、つまり繊維と繊維が結着するタイミングを知っています。だから、例えば文書を洗う場合、ぎりぎり紙が紙でいられる限界まで追い込んで、間に入っている酸性物質を洗い流すことができるのです。
洗ったらそっと乾かしてアルコール消毒をし滅菌します。さらに、大事なものには裏に紙を貼ります。裏打ちには炭酸カルシウムを漉き込んだ紙を使う。アルカリ性なので超安心です。浮世絵など合紙が必要なものにも、炭酸カルシウム入りの紙を使います。どんなにきれいにしても、まだ酸性物質が残っているのではと懐疑的なんです。そういう意味では私たちは非常に憶病です。
弱酸性です。とは言え、セルロース自体が弱酸性の場合は、酸化はあまり進みません。ただし、弱酸性のセルロースの間に酸性物質がいると、それが大気中の酸素と化合して酸化が進んで本体に影響を及ぼすことはあるようです。セルロースは本当に不思議な物質です。日本には構成素材が中性の紙はないと思います。楮の紙は弱酸性だけど、ほぼ劣化しません。その辺の研究はまだまだです。
日本の紙は丈夫過ぎて、誰もが劣化するはずないって思っていたからかもしれませんね。歴史的なものが普通に残ってきたから、残そうっていう気質があんまりない。紙が劣化するって誰も気づいていない。お寺にある昔の掛け軸とか、年に1回虫干しすれば大丈夫って、本当にすごい。コンサバター(保存修復士)という職業の人が日本に少ないのも、それが理由かもしれません。
非常に汎用性に富んだもので、楽しいってこと。日本の文化だから大事だよというような、情緒的な感覚はありません。用途を考えた時、最もハイテクな素材だと思ったのが紙だったんです。文化財保存にいちばん適していると思った。他にベターなものがあるなら、そっちにいったらいい。そういう素材が出てくるかもしれないから、取り外せるようにしている。