様々な用途を持つ日本の紙。和歌をしたためて恋人におくる、大切な着物をしまう、茶席で茶碗の縁や口元をきれいにする…。これらは「3W」(Write、Wrap、Wipe)と呼ばれる一般的な紙の基本的な機能を利用した行為です。さらに、日本の紙は、こうした日常使いのほかに、美術作品の支持体としても活用されてきました。
ここでは、当館の収蔵品の中から日本画と浮世絵を取り上げ、紙の側面からみていきます。そこには、1000年以上守られてきた技術を受け継ぎながら、その可能性を広げようとする紙漉き職人たちと、彼らを支える者たち、そして、彼らによって造られた紙を好み、それに絵筆を走らせた画家たちの姿が浮かび上がります。
日本では古くから、屏風や襖、扇子や絵巻など、紙に絵が描かれてきました。別の素材としては、絹があります。絹は表面が滑らかで裏からも彩色できるなど、絵を描く素材としてとても優れています。近代日本画では、絹に描く画家も多くいました。しかし現在では、紙に描かれることも少なくありません。その理由のひとつに、理想の表現を求める画家たちの要求に、紙を造る職人たちが応えてきたことが挙げられます。
時代が明治から大正になり、機械による「洋紙」の生産がますます盛んになると、伝統的な製法での紙の需要は落ち込んでいきました。産地は日本画用の紙に販路を見出し、積極的に開発を始めていくことになります。
開発を進めた紙漉き職人のひとりに、越前(福井県)の初代岩野平三郎(1878-1960)がいます。もともと研究熱心だった岩野は、大正5(1916)年頃から日本史家の牧野信之助(1884-1939)と交流を深め、日本画紙の開発に取り組んでいきます。当時の日本画は、西洋画の影響を受けて、線から色彩を重視した描法に変化しつつありました。色が沈まない発色の良い支持体が求められ始めていたのです。それを岩野に伝えたのは、嶋連太郎(1870-1941)という人物。今も東京都千代田区にある印刷会社「三秀舎」の創業者です。
岩野に助言を与えたのは、牧野や嶋だけではありません。岩野は大正中期に日本画家の富田渓仙(1879-1936)と知り合います。渓仙はもともと紙に好んで描いていました。そして渓仙を通じ、竹内栖鳳(1864-1942)や横山大観(1868-1958)らとも交流し、助言をもらうようになりました。もちろん、彼らのリクエストに応えて特注の紙も漉き上げていきます。
当館が数多くの写生や下絵、模写を収蔵する、日本画家・安田靫彦(1884-1978)もそうした画家のひとりです。安田は横山大観と深い交流があったことから、大観を通じて岩野と出会ったと考えられます。
安田は、多くの作品で越前の紙を使用しています。当館所蔵の安田の紙本作品《草薙の剣》もその可能性が高いと考えられます。修復時の調査により、紙は3層から成り、上下の紙の層の間に金箔が挟み込まれていることが分かりました。これは「金潜紙」と呼ばれる紙で、岩野が紙漉きを手掛けていました。
安田が岩野に宛てた書簡も残っています。開発の助言として、試し描きの結果が記されているものがあり、それには「画紙に描いた時の趣は、絹に求めることはできない」とあり、さらに良い紙ができるよう精進してほしい、と続きます。紙を発注する書簡には、厚さやサイズ、枚数などが指定され、時には紙見本を付けて依頼しており、安田の画紙へのこだわりの強さが感じられます。
岩野は近代の日本画の発展を支えた人物といってよいでしょう。画家たちのたくさんのリクエストに応えながら、また歴史家らの助言を得ながら、日本画紙は大きく発展していきます。原料に麻を使った「麻紙」はそうした紙の代表です。歴史家の内藤湖南(1866-1934)から天平時代の紙片を渡された岩野は、途絶えていた麻紙を復活させました。厚塗りでも絵具をしっかり捉える強さがあり、日本画紙として重用されるようになったのです。
現在も四代目岩野平三郎が、紙を表現の素材に選んだ多くの画家やアーティストの要望に応え、彼らに合った紙を漉き上げています。
日本の紙の特徴が存分に発揮されるもののひとつに、木版画があります。江戸時代に流行した浮世絵も木版画です。特に色数が多い浮世絵は錦絵と呼ばれ、当時の庶民たちを虜にしました。木版画は、ひとつの色につき、ひとつの版を作り、摺りを重ねて仕上げていきます。色の多さは摺りの回数に直結するため、錦絵を作るには、何回もの摺りに耐えられる強靭な紙が必要とされました。
強靭な紙といえば、やはり楮を原料とした紙です。なかでも「奉書」と呼ばれる紙が最高級の用紙として重用されました。しかし、「奉書」は木版画用紙として開発されたものではありません。もともとは、古くは中世から、武家の公文書に多く用いられてきた紙でした。それが最高級の錦絵用紙となったのは、その強靭さのためだけではありません。美しさも重要なポイントでした。
錦絵に限ったことではありませんが、版画の場合、色が摺られない部分は紙の表面が、そのまま画の色として観る者の目に触れることになります。特に大首絵など人物の顔が大きくあしらわれるものは、小さなゴミひとつで表情が変わるため、チリひとつない奉書に漉き上げる必要がありました。また、時間が経っても白いままであることも重要です。原料の中から小さなゴミを取り除き、紙を変色させる不純物を洗い流す作業には、多くの時間と労力を伴います。奉書を漉く職人たちの、こうした努力のおかげで、私たちは錦絵に摺られた美人を、美人のまま鑑賞することができるのです。
現在でも、特に人間国宝の九代目岩野市兵衛(1933-)が漉いた生漉き奉書(楮100%の紙)は木版画を制作する者にとって憧れの用紙のひとつになっています。岩野家は代々生漉き奉書を漉き続けており、先代の八代目岩野市兵衛(1901-1976)も同じく人間国宝でした。八代目は版画家の吉田博(1876-1950)が版画用紙がないと語るのを新聞で読み、自身が漉いた奉書を吉田に送っています。その後、木版複製技術者の川面義雄(1880-1963)らの協力を得ながら研究を重ね、より木版画に適した奉書を漉き上げていきました。
九代目岩野市兵衛は、母親から「紙漉きは死ぬまで1年生だ」と言われていたといいます。こうして日々技術を磨きながら漉かれた奉書だからこそ、多くの版画家や美術関係者らに求められているのです。