第2章 路地の文化
―社会の成熟からヒップホップの定着まで―
戦後昭和の復興と文化

 戦時期は国民が総動員され、空襲もあり被害は甚大であった。終戦直後は多くの人々が、今日食べるものに困る状況に陥っており、親を亡くした戦災孤児なども多かった。そのような中でも、人々はたくましく日々を生きていた。

【画像2-1】「靴みがきの子ら」上野公園(1950年、写真:毎日新聞社/アフロ)

 民主化された終戦後の日本では、文化面でも大きく花開いていくこととなる。若者の奔放な生活を描いた、石原慎太郎の短編小説『太陽の季節』は、弟の石原裕次郎が出演した同名の映画とともにヒットした。慎太郎の髪形をまね(「慎太郎刈り」)、アロハシャツを着た若者たちが湘南の海岸に出現するようになり、「太陽族」という流行語も生まれた。

【画像2-2】太陽族、「慎太郎刈り」の若者、湘南海岸(アマナイメージズ)

 のちに「団塊の世代」と呼ばれるように、終戦直後に生まれた世代は人数が多く、若者文化も大きなうねりとなる。1960年代になると、アイビールックの男性や白いブラウスとロングスカートをまとった女性が東京銀座のみゆき通り周辺に集うようになり「みゆき族」と呼ばれた。

【画像2-3】みゆき族の若者たち(アマナイメージズ)

 終戦後の連合国軍による占領が実質的にアメリカによるものだったことから、戦後、アメリカ文化は大量に日本へ流入することとなった。戦時期は敵国だったアメリカが、戦後は憧れの対象となり、文化的に多くの若者を惹きつけていく。特にロックなど音楽の影響は大きかった。
 その頃の川崎では、工業化が進んだ影響から、工場の従業員として多くの若者が移り住むようになる。1960年代は農村の趣が残る地域も少なくなかったが、工場が多く所在する南部では繁華街が増え、川崎球場や川崎競馬場、川崎競輪場などの娯楽施設も次々に開場された。

【画像2-4】昭和30年代の川崎のようす「露天商」
(川崎市市民ミュージアム所蔵)

【画像2-5】昭和30年代の川崎のようす「街角」
(川崎市市民ミュージアム所蔵)

【画像2-6】昭和30年代の川崎のようす「昼下り」
(川崎市市民ミュージアム所蔵)

【画像2-7】昭和30年代の川崎のようす「一思案」
(川崎市市民ミュージアム所蔵)

【画像2-8】昭和36年頃の武蔵溝ノ口駅前。のちにブレイキンの聖地として知られるようになるとはまだ誰も想像しなかった。
(川崎市市民ミュージアム所蔵)

【画像2-9】昭和30年代の川崎球場
(川崎市市民ミュージアム所蔵)

【画像2-10】昭和30年代の川崎競馬場
(川崎市市民ミュージアム所蔵)

【画像2-11】昭和30年代の川崎競輪場
(川崎市市民ミュージアム所蔵)

アメリカにおけるヒップホップの誕生

 アメリカでは1950年代にロックが誕生し、エルヴィス・プレスリーが人気を博す。その後ロックは一時期停滞するも、1960年代にイギリスのビートルズが世界的にヒットしたことで定着する。ロックは社会の権威に対する反抗という思想的な背景があったことで、多くの若者を魅了した。
 この頃のアメリカは、1964年に公民権法が制定されるなど社会運動の影響もあったが、依然として人種差別や格差などが大きな問題となっていた。ニューヨークのブロンクス地区では、第一次世界大戦当時は賑わいをみせていたものの、1970年代には貧困層の増加や犯罪が多発した。そうしたなかでも人々は日々を生き、自分たちの力で娯楽を生み出していった。その一つが、ヒップホップであった。

 ヒップホップの中心となるDJ(ディスクジョッキー)は、狭義にはディスコやクラブなどの会場で、レコードプレーヤー(ターンテーブル)を操作し、客に音楽を聴かせる人のことである。DJ自体は、ヒップホップ誕生以前から存在した。1970年代後半、アメリカではディスコが流行しはじめる。それまでのダンスホールでかかる音楽は生演奏が主流だったのに対し、ディスコは生演奏に代わってDJが流すレコードに合わせて客が踊った。このDJの生み出す新しい「音楽」がブレイキンを生み出し、その後ラップ、グラフィティへと発展し、ヒップホップの大きなうねりとなっていく。
 こうした経緯からヒップホップとは狭義にはラップ・ミュージックを指すことが多いが、今日では音楽を中心にダンス、アート、ファッションなどのさまざまなジャンルを包含した文化となっている。

 ヒップホップには明確な誕生日と生誕の地が存在する。1973年8月11日、ニューヨークのウエストブロンクスはモーリスハイツ地区のセジウィック通り1520番地で産声を上げた。ここにあった公営住宅の娯楽室で開催されたパーティーが誕生の場である。娯楽室でDJをしていたクール・ハークはかねてから、流すレコードの曲中でドラムだけになる部分(「ブレイクビーツ」)になると若者が熱狂して踊ることに気づいていた。そこで、同じレコードを2枚用意し、この部分だけを交互に流し、ブレイクビーツを長く続けるという技法を編み出したのである。
 当初、まだラップは主役ではなかった。のちにDJの定番となる、レコード盤を繰り返し「擦る」スクラッチという技法があるが、そのスクラッチの前身となる技法(ラビング)を実践したのはアメリカ出身のミュージシャン、グランドマスター・フラッシュである。彼は、オーディエンスがDJの技術に感心して踊らなくなったのをみて、オーディエンスを踊らせる目的で彼らに呼び掛けた。その言葉とリズムが源流となり、ラップとして発展した。

ダンス文化を取り巻く技術環境

 文化の発展には、科学技術の進歩が大いに関係する。DJにはターンテーブルが欠かせないが、その機材の発展はヒップホップが「育つ」要因の一つとなった。
 それまでのレコードプレーヤーは、モーターの回転をベルトで伝えるベルト・ドライブ方式が一般的であった。モーターの振動の影響を受けにくい反面、ベルトの劣化で速度が変わるなどの欠点も存在した。そこで誕生したのが、ターンテーブルの中央下部にモーターを配し、モーターの回転を直接ターンテーブルに伝える、ダイレクト・ドライブ方式であった。1970年、この方式による第1号機であるSP-10がテクニクス(現・パナソニック株式会社)から発売され、続いて1971年にSL-1100、1972年にSL-1200が発売された。

【写真2-12】Technics SL-1200(個人蔵)

 この頃メーカーはターンテーブルを、レコードを再生するオーディオ機器として開発している。もともと放送局で定評のあったSL-1200がディスコでも導入されていったが、当初ディスコでのターンテーブルの使われ方を見た開発者たちは眉をひそめたという。しかし、DJたちが懸命にターンテーブルを操作する姿を目にし、ディスコでの使用に耐えうるターンテーブルをと開発されたのが、SL-1200MK2であった。

【写真2-13】Technics SL-1200MK2(画像提供:パナソニックホールディングス)

 1979年に発売された同機は、ディスコの全盛期という追い風も手伝って瞬く間にDJの定番機となる。その後、ダンス文化はディスコからヒップホップへと移行していくが、その流れの中でSL-1200MK2の操作性を重視する思想は現在のDJにも受け継がれている。

アメリカにおけるヒップホップの定着

 1980年代に入り、ヒップホップはアメリカのミュージックシーンの表舞台に登場する。1983年、ジャズ・ピアニストのハービー・ハンコックが発表したアルバム『フューチャー・ショック』がヒットする。このアルバムでは、DJであるグランドミキサーD.ST(のちグランドミキサーDXT)がターンテーブルを担当。ここからシングルカットされた「ロックイット」は翌年グラミー賞を受賞し、スクラッチを用いた楽曲を多くの人々に認知させるに至った。

【画像2-14】ハービー・ハンコックのアルバム『フューチャー・ショック』(1983年)のジャケット。このアルバムに収録された「ロックイット」がグラミー賞を受賞、その後のクラブシーンを決定づけた。(株式会社ソニー・ミュージックレーベルズ)

 ヒップホップはもともと1970年代にニューヨークの一地域で生まれたが、その後ディスコ寄りとなり、衣装も派手になっていく。そうしたなか「原点回帰」思想も踏まえて登場したのがランD.M.C.だった。彼らは、派手でない衣装や叩きつけるようなラップで一世を風靡し、現在一般に認知されるヒップホップ・イメージの基礎を作ったといえる。

【画像2-15】LL・COOL・J『MAMA SAID KNOCK YOU OUT』(1990年)のジャケット。LL・COOL・Jは、Run-D.M.C.のランの兄であるラッセル・シモンズが立ち上げたヒップホップレーベル「デフジャム」の契約第1号。「マッチョ」なラッパーのイメージはこのあたりで確立した。(©ユニバーサル ミュージック)

 ラップは、1980年代後半に白人のラップトリオであるビースティ・ボーイズが登場するなどし、サンプリングマシーンの導入など華やかな変化を遂げる。それまでDJやブレイクダンスが中心だったヒップホップ・シーンの主役に躍り出て、アメリカの音楽シーンにおいてラップが定着していった。
 アートシーンでグラフィティやストリートの文脈が認知されるようになるのもこの頃である。1980年、キース・ヘリングがニューヨークの地下鉄の空いた広告版に貼られた黒い紙にチョークで絵を描くと、通勤客の間で話題となり、多くの人々に知られるようになった。キース・へリングが描いていたのはグラフィティそのものではなく、それらを含めたストリート文化からインスパイアを受けた独自の制作活動であったが、彼を通してストリートでの作品がアートとして広まった側面があり、世界的な影響は大きかった。

【画像2-16~18】チョークでサブウェイ・ドローイングを描くキース・へリング(1982-1983年、ニューヨーク。Photo by ©Makoto Murata、画像提供:中村キース・へリング美術館)

「竹の子族」の原宿から「渋谷系」まで

 高度経済成長を経て、日本は経済大国の仲間入りを果たす。学生運動の敗北から、若者たちの関心はまた文化へと向かっていく。若者を取り巻く環境としては受験戦争の激化などもあり、社会に対する反抗は、政治とはまた異なった手段で展開されることとなる。
 アメリカのヒップホップで一躍脚光を浴びたのがターンテーブルであったが、こうした音楽機器が文化に与えた影響は見逃せない。1979年に発売されたソニーのウォークマンを皮切りに、音楽が持ち運べるものとなる時代が到来する。その前史として、1967年に松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)がラジオの搭載されたカセットテープレコーダーを発売、その後ラジカセ(ラジオカセットレコーダー)と呼ばれるようになり、1980年代以降爆発的に普及する。

【画像2-19】ラジカセRT-7270SD(1979年、東芝未来科学館)

【画像2-20】ラジカセRT-100S(1981年、東芝未来科学館)

 1980年代の若者文化の中心は、歩行者天国となっていた代々木公園周辺を含む東京・原宿であった。ここでは1970年代後半から、ラジカセを囲って踊る「竹の子族」が注目された。1980年代に入ると竹の子族は衰退するが、代わってバンドやブレイクダンス、スケートボードやBMXといった最先端文化の発信地として、1990年頃に原宿はその地位を確立することとなる。

【画像2-21】原宿の歩行者天国で踊る竹の子族(写真:Haruyoshi Yamaguchi/アフロ)

 音楽分野では1990年代前半に、のちに「渋谷系」と呼ばれる音楽が一世を風靡する。1973年の渋谷パルコ開業以降、複数のレコード店(のちにCDも扱う)やライブハウスの開店により、渋谷はさまざまな音楽に触れることができる場所となった。アーティストたちも渋谷でレコードやCDを買い漁り、自身の創作活動に活かしていった。そうしたさまざまな音楽をミックスした結果生み出されたのが、渋谷系サウンドであった。

日本におけるヒップホップの流入と定着

 ヒップホップを世界的に知らしめるのに大きな役割を果たしたものとして、映画『ワイルドスタイル』(1983年日本公開)が挙げられる。同じ映画では、同年公開の『フラッシュダンス』もブレイクダンスを扱っているが、『ワイルドスタイル』のテーマはヒップホップ文化全般で、日本のヒップホップ黎明期に活躍した人々も、口々にこの映画による影響を語っている。
 ラップに関しては、アメリカで1979年にリリースとなったシュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」(ヒップホップ/ラップ初のヒット曲)に影響を受けて、1980年頃にラジオDJの小林克也らが作った曲が始まりであると考えられ、ほぼリアルタイムで輸入されていることになる。その後、いとうせいこうのアルバム『MESS/AGE』などを経て、徐々に日本にも広がっていく。
 1990年代前半、日本のポップスシーンでは渋谷系が注目されるようになるが、その文脈でラップがヒットするようになる。特に1994年に発売された、スチャダラパーと小沢健二による「今夜はブギー・バック」やEAST END×YURI「DA.YO.NE」は世間一般にラップを認知させることに貢献した。

【画像2-22】小沢健二featuringスチャダラパー「今夜はブギー・バック(nice vocal)」ジャケット(©ユニバーサル ミュージック)

【画像2-23】スチャダラパーfeaturing小沢健二「今夜はブギー・バック(smooth rap)」ジャケット(株式会社ソニー・ミュージックレーベルズ)

 2002年に公開された映画『8マイル』は、ラッパーであるエミネムの半生が描かれたもので、この映画によりフリースタイルバトルも広く知られるようになる。
 21世紀に入り、アメリカの音楽シーンでは多様なジャンルが群雄割拠する時代となったが、ラップもその一角を占めるようになった。日本でもメジャーシーンでラップを耳にすることは多くなり、われわれの日常に定着した音楽となったといえる。