第1章 戦前日本の路地の記憶
ストリートの諸相 ―路地の文化―

 ストリートカルチャーを代表するヒップホップは、グラフィティ、ラップ、DJ、ブレイキンの4要素から成るとされる。これらはそれぞれ、グラフィティなら「描く(書く)」、ラップとDJなら「歌う」、ブレイキンなら「踊る」という行為である。このことから、4要素の根本原理は人類が誕生した頃からなされてきたものであるといえる。
 このような起源から人間社会が形成され、人が集団で生活するようになると、組織が生まれ、組織には規範が構築される。しかし、人は多様であり、その規範から逸脱する人々も出てくる。落書きは元来、社会批判の性格も有しており、いわば組織側から「不良」とされた人たちの行為でもあった。詩や踊り、落書きでそうした「憂さ」を晴らす側面もあり、それらが記録されたものである落書きを見ることで、そうした人々の生き方を見つめることができる。
 古くから日本には「落書(らくしょ)」と呼ばれるものが存在する。落書は、落書きが政治風刺に発展したもので、高札や建物に書かれることが多かった。現在のグラフィティにもそうした要素はみられ、1334年の建武の新政を批判した有名な「二条河原落書」のように、人々は落書きで「ものを言う」ことをしてきたといえる。

【画像1-1】「二条河原落書」に関する記述のある「建武記」(国立公文書館所蔵)
「二条河原落書」は、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇が行った建武の新政について、それに不満を持つものが二条河原に掲げたとされる落書で、漢詩や和歌に通じた者が書いたことがわかる。

 すでにその頃、「寺の柱に書き付ける」という行為も存在した。「二条河原落書」より少し前の時代、僧が寺の柱に歌を書いている様子が描かれた絵が残されており、これはラップ(詩・歌)と通じるところがある。

【画像1-2】寺の柱に歌を書き付ける僧 三村晴山(模)遊行上人縁起絵巻(模本)巻第二(東京国立博物館所蔵、Image : TNM Image Archives)

 仏教には、太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らしながら念仏を唱える「踊念仏」というものがあった。人々は念仏を唱えながら踊っていたという。

【画像1-3】踊念仏((国宝)一遍上人絵伝 巻第七 法眼円伊作(東京国立博物館所蔵)、Image: TNM Image Archives)

 このように日本でも、描く(書く)、歌う、踊るという行為は古くからなされていた。これらはまさに、市井の人々の自己表現が具現化したものであるといえよう。

繁華街と娯楽

 明治時代に入って日本は近代化の道を歩み始める。近代的な首都となった東京は江戸時代の頃よりも多くの人が集まるようになり、都市化が進んだ。人が集まる場所には繁華街が形成され、娯楽が発展する。代表的な地域としては浅草が挙げられる。浅草寺を中心として周辺地域は公園となり、1890(明治23)年に竣工された当時、日本で最も高い建物であった12階建ての凌雲閣がランドマークとなった。

【画像1-4】画作兼印刷発行人渡邉忠久「東京浅草凌雲閣真景」(川崎市市民ミュージアム所蔵)

【画像1-5】田口米作「浅草公園凌雲閣之図」
(川崎市市民ミュージアム所蔵)

【画像1-6】浅草公園を写した絵葉書(彩色)(個人蔵)

 明治時代が終わり、迎えた大正時代は大衆文化が花開く。それまでの娯楽は、現場で芸人が実演するものがほとんどであった。それらを追体験するには書籍などに頼るしかなく、文字や絵、のちに写真などの静止したものを、視覚を使って情報を得ていた。
 20世紀に入ると欧米で映画や蓄音機、ラジオといった新しいメディアが開発され、娯楽にも普及する。それらはほどなく日本にも伝わった。特に、聴覚に訴える音声や動く映像の登場は、それまでの静止した情報をはるかに超えて、人々を惹きつけるに十分なインパクトがあった。
 19世紀末に発明された映画は当初、音声はなく白黒の画像が連続で流れるものであった。20世紀に入り、ストーリー性のある作品が作られるようになると、娯楽として急速に広まった。特に1920年代のトーキー(音声が同期した映画)が登場することで、娯楽の王様の地位を確立した。これらを上映する映画館も各地に建設され、文化の中心地であった浅草も例外ではなかった。

 1877年に、音声を記録・再生するものとして、蓄音機が開発された。エジソンが開発した当初の蓄音機は蝋管に音を記録していたが、ベルリナーが円盤式の蓄音機を開発すると、音楽などを楽しむメディアとして急速に普及した。1907(明治40)年に創立された日米蓄音器製造(現・日本コロムビア株式会社)は、翌年に現在の川崎区に工場を建設、国産第1号の円盤レコードを発売する。以後川崎工場では、多くのレコードが生産された。

【画像1-7】蓄音機 昭和初期 日本蓄音器商会製(川崎市市民ミュージアム所蔵)

 レコードとともに、「音の娯楽」の普及に大きな役割を果たしたのが、大正末期に始まったラジオ放送であった。戦前、ラジオは高価なものであったが、生放送という強みを生かし、野球をはじめとしたスポーツの実況放送などで人気を博すなど、大衆の娯楽の一つとなった。

【画像1-8】真空管式ラジオ ミタカ電機製(川崎市市民ミュージアム所蔵)

不良少年の問題化

 繁華街の隆盛とともに、大正期に入ると「不良少年」の存在が問題化する。それに伴い、不良少年に関する研究が多くみられるようになる。

【画像1-9】不良少年に関する研究の一例。「不良少年」を「排除しない」方策についても言及がある。(金森徳次郎「不良少年を論ず」、『社会及国家』第1巻4号、1913年。一橋大学附属図書館所蔵)

【画像1-10】不良少年を扱った研究書も多く出版された(郷津茂樹『不良少年になるまで』、1923年。草間八十雄『不良児』、1936年。個人蔵)

 明治時代、日本政府は欧米列強に追いつくために「殖産興業」、「富国強兵」を進めていくが、政府にとって教育は国家に資する人材の育成という側面があり、資本主義のもとでは少年に労働力としての価値が求められることとなる。社会は、そこから逸脱した人々を「不良」として問題視していく。実質的には「不良少年」とは少年そのものが「不良」なのではなく、国家が想定する「社会」の枠にはまらないことから、枠にはめたい側の論理で「不良」と分類していたのである。
 ジャズやロックといった音楽や、大正時代のモダンボーイ(モボ)・モダンガール(モガ)のファッションなど、その後市民権を得る文化は登場当時、得てして奇異なものと捉えられ、場合によっては「不良がするもの」とされてきた。映画館に入り浸ることも不良行為とされ、映画館そのものがいかがわしいものとして認識されていた時代もある。触法行為は論外だが、そうした「不良」から文化が生み出されてきたこともまた、まぎれもない事実なのである。

【画像1-11】下川凹天「銀座は移る」(『東京パック』(第四次)第18巻第1号、1929年。川崎市市民ミュージアム所蔵)
昭和時代に入ると、それまでの「モボ」「モガ」に代わり、左翼思想に傾倒する「マルクスボーイ」や「エンゲルスガール」も出現した。この『東京パック』の表紙は、そうした「マルクスボーイ」「エンゲルスガール」が銀座を闊歩していた様子を描いている。